2019年3月16日土曜日

クリエイティブな若者を説法対象と見るお坊さんは冷たい?

以前、ある若手お坊さんの記事を書かせてもらった。インタビューの映像を見て記事を書くというものだ。その時、僧侶はお布施で説法を楽しみながらし、クリエイティブな若者を中心、対象に自分のオリジナル説法を一緒に楽しみたいという一節があった。

クリエイティブな若者だけを求めているという事に対して、本来お坊さんは誰でも分け隔てなく受け入れるのではないのかという疑問を持った。しかし、私が間違っている事に気付く。

「求める」ながら「受け入れる」とは?

彼はお布施歩きを自分のライフスタイルとして実践しているので、言わば公私混同、自分のこれからの道を切り開く事もしなければいけないのだ。例えば、ブロードウェイを目指す人は、ブロードウェイを求めているということになる。自分が憧れている人や場所に向かって自分が求めて行く事は、その人が成功するには必要な事だ。「志あるところに道は拓かれ(ひらかれ)求るところに師は現れる」(アシックス創業者鬼塚喜八郎の言葉より引用)の格言もある。彼は僧侶として、より自分を高めるために自分も憧れる場所や人を求めている事になる。もちろん、僧侶としては求められれば誰でも受け入れる体勢は整っていることだろう。何も、クリエイティブな若者以外は受け入れないとは言っていなかったのだから。それを、彼がクリエイティブな若者を求めている事に対して、それ以外の人を受け入れないと解釈してしまった事について気付いた。そう、彼はヒーロータイプなのだ。そう言えば、いい方向を求めその方向性にいない人をも求められれば受け入れられる体質の人は器が大きいと感心する事が多いし、そういう人を見習いたい。

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